コトバトコ

読書/書評/エッセイ

消滅都市/村田沙耶香

デストピアであり、ユートピアであり、僕たちの現実社会。
狂っているのは私か、それとも社会か。
 
 
現代の新しい古典といえるだろう。少女は架空のアニメキャラクターに初恋をし、一度目の結婚をする。その後破綻。朔くんと二度目の結婚をして順調な夫婦生活をするが、同じマンションの住人、水人と出会い不倫をする。。
 
  
ここまではありきたりな小説に思える。しかし舞台となる都市では、愛と平等の名の下に『個人』が否定されている。人々は『おかあさん』と『子供ちゃん』として記号化される。性欲は原始的な動物的本能の現れであり、排泄すべきものとして位置付けられている。出産は人口的に行われ、自然分娩は良いことだとは考えられていない。それどころか、夫婦間で性交を行い、子供を儲けるのは近親相姦とされているのだ。舞台となる実験都市では、子孫を繁栄させるという目的が全てであり、そのための手段は問われない。しかし、主人公である雨音の母は、そのような価値観を否定し、個人の抱いた恋愛感情や性愛の世界こそ、人の生きるべき世界だという。そんな世界の中で主人公は近親相姦によって生まれたことに、コンプレックスを抱きながら、恋と性欲という病に取り憑かれつつも、その経験をもとに自分という存在を確かめる。個を確立するプロセス。それは思春期の体験。
 
  
均一化された世界は社会主義を思わせる。僕の記憶が正しければ、統計学の誕生により平均的という概念が生み出された。つまり『普通の人』の誕生である。僕たちの現実社会では、この『普通の人』なのかどうかを巡って、人々は翻弄される。これはとても重要な問題なのだ。いわゆる、中心と周辺を巡る物語。言いかえれば正しさを巡る問題。
 
 
僕たちの現実社会では常に自分が中心に近いところにいるのか、中心から遠く離れた周辺にいるのかを気にして、マウンティングゲームが行われているのではないだろうか。そして、そこに私は何者なのか?というアイデンティティーの問題が関係してくる。職業や社会的地位は自分の努力と意思によりある程度自由に選べるし、変更可能だ。そこには自分の力で、自分の人生を開拓しようとする動機が生まれる。僕たちはそれを希望と呼ぶ。しかし性別はどうだろう。生まれながら背負った属性であり、それは誰にも選べないことだ。そして、その性により社会的分業体制が生み出された。いわゆる、僕たちの現実社会で性差別、女性蔑視、男女の不平等と呼ばれているものだ。この小説の背景には、ジェンダー論やフェミニズムといった思想が見え隠れしている。消費されるポップカルチャーとして評価すべきではないと、僕は感じる。
 
 
マイノリティがマジョリティに、マジョリティがマイノリティになるプロセス。それを社会的属性としてのセクシャリティを解体してみせることで、表現することに成功している。人はこの世界で正気を保てるのか?父のいない世界、それは去勢された社会。鋭い女性の感性が『正しさ』を問う。その『正しさ』こそが人間の狂気そのものではないか?そう問いかける。どこか、桜庭一樹の「私の男」に通じる読後感。
 
 
少年ラピスの物語をアニメ化してくれないかな。